愛する人を送るなら、誰だって心を込められます。しかし、生前にDVをしていた人間、罪を犯した元犯罪者、憎しみしか遺さなかった人間——そんな葬儀、誰だって引き受けたくないのが本音です。遺族すらたらい回しにし、「適当にあしらいたい」と思う。それが人間の生々しいリアルです。私たちの元には、そうして行き場を失った「ワケアリ」の葬儀が、最後に持ち込まれます。世間は故人を「良い人か、悪い人か」で裁きます。ですが、僧侶の仕事は「裁判官」ではありません。どれほど過去が汚れていようが、周りからどれほど憎まれていようが、命の重さに差などありません。だからこそ、仏教には「差定(さじょう)」という厳格な作法が存在します。もし感情で拝むなら、嫌いな奴の葬儀は適当になってしまう。だからこそ、個人的な感情を一切挟まない「差定」という絶対的な型があるのです。決まった手順で、淡々と、粛々とお勤めを果たす。この型があるからこそ、私たちはどんな人間であっても平等に供養できます。故人が本当はどんな人間だったのか?正直、第三者である私に分かるはずがありません。だからこそ、分からないものを「分からないまま」、ただ只管(ひたすら)にお経を唱える。「愛せる人だけ手厚く弔う」なら、そんなものは素人と一緒です。どれほど憎まれた人間であっても、変わらず仏前に送り届ける。これこそが僧侶のプロとしてのプライドであり、果たすべき唯一の務めです。割り切れない感情も、深い葛藤も、すべて抱えたままで構いません。どんなご事情であっても、当院は逃げずに引き受けます。合掌
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