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—— 慈悲か、それとも逃避か

​ 本日のコラムでは、私たちが日常生活でよく耳にする「寝た子を起こすな」ということわざについて、少し踏み込んで考えてみたいと思います。(あくまでも私の見解として聞いて下さい)

​ 一般的にこの言葉は、「困難な問題や、放置していた問題を蒸し返して、余計な波風を立てるな」ということわざとして語られます。しかし、この言葉の裏側に潜む「視点」に目を向けたとき、私たちはある残酷な事実に気づかされます。

寝た子が起きたらあやせばいいのでは・・・

​この言葉をよく「リスク回避の格言」として得意げに語る方は、実は「泣き出した子をあやす苦労を知らない、遠くで眺めているだけの人」ではないでしょうか。

​ 想像してみてください。スヤスヤと眠る赤子を前に、「起こすな」という人はどんな人ですか?そんな人は、子が起きれば静寂が破られ、自分の平穏が乱されることを恐れています。しかし、その子の面倒を一身に背負う「お母さん」の視点は全く異なります。

​ お母さんにとって、子を寝かせておくのは単なる放置ではありません。次に子が起きたときに万全の態勢で向き合うための「戦略的休息」であり、あるいは「今ここで起こして授乳しておかなければ、後でこの子が空腹でより激しく泣き、苦しむことになる」という予測に基づいた深い慈愛の判断です。

​◎本当に困っているのは誰ですか?

​「寝た子を起こして困るのは誰か?」という問いに対し、多くの人は「周囲の大人だ」と答えるでしょう。しかし、本当に困るのは、不快な状況を抱えたまま放置され、爆発するまで気づいてもらえない「子(本人)」自身ではないでしょうか。

​ 大人の社会においても、私たちは「波風を立てたくない」という自己保身から、目の前の問題を「寝た子」に見立てて蓋をしてしまうことがあります。しかし、それは慈悲ではありません。単なる「問題の先送り」であり、後にその子が起きて騒ぎ出すのを待っているようなものです。しかも、その人は子供ですか?大人でしょと言いたいですが、私は大人になれないまま年齢を重ねてきたのですか?と問いたいですね。

​◎仏教の視点から:正しく「起こす」勇気

​ 仏教には「正見(正しく見る)」という教えがあります。物事をあるがままに見つめ、一時的な平穏に惑わされないことです。もし、その「寝た子」がいつか必ず起きて泣き出すなら、周囲の都合で無理に眠らせ続けることは、残酷な仕打ちとも言えます。あえて今、手を差し伸べ、適切に「起こす」こと。そして、起きた後の混乱を共に引き受ける覚悟を持つこと。さらに起こす人にもよるということ。それこそが、真の意味での「当事者」としての生き方ではないでしょうか。

​「寝た子を起こすな」という言葉を、無責任な逃避の言い訳として都合よく使っていないか。私たちは常に、自らの心に問い直す必要があります。

​合掌

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