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法事などの時に僧侶に渡す報酬をよくお布施と言いますが、本来、どんな意味があるかご存知ですか?布施とは簡単に言うと「寄付」「施し」です。しかし条件としてお互い喜びを与えなくては布施とは言えないのです。

曹洞宗のお経、修証義第四章に「布施というは貪らざるなり、我物に非ざれども布施を障えざる道理あり、其物の軽きを嫌わず、其功の実なるべきなり、然あれば則ち一句一偈の法をも布施すべし、此生侘生の善種となる、一銭一草の財をも布施すべし、此世侘世の善根を兆す、法も財なるべし、財も法なるべし、但、が報謝を貪らず、自らが力を頒つなり、舟を置き橋を渡すも布施の檀度なり、治生産業、固より布施に非ざること無し。」

現代語訳「布施というのは、欲張らないことをいう。自分のものではなくても布施してはならないということはない。僅かなものでは駄目だというのではなく、その実践こそ大切なのです。そうであるから、たとえ一言一句の法話で布施をしたらよい。この世やあの世の善き種となるのである。僅かなお金でも物でも布施をしたらよいので、この世やあの世の善い行いとなります。宝であるし、物質的なものも法なのです。
ただ自分の報酬を独り占めしないで、自分の出来る限りの財産なり法(思いやりの持った言葉)などを他に分け与えることが大切です。例えば舟を置いたり橋をかけたりするのも布施といえます。また、生計をたてるための仕事をすることも布施となりましょう。」

今回は(自分のものではなくても布施してはならないということはない。)について説明します。

 私は名古屋のある寺院で勉強会があった時、帰りに鬼まんじゅうで有名な和菓子屋さんに行きました。ここでは作り立てが購入できますので注文してから15分以上待たなくてはなりません。私は注文をしたら「40分お待ちください。」と店員さんに言われましたので待っている間、街を散策しておりました。時間通りに店に戻り鬼まんじゅうを受け取ろうとしたら、杖を突いたおばあさんが店にやってきて、鬼まんじゅうをどうしても家族に食べさせたいと注文しましたが、1時間以上待ってください。と店員さんに言われました。私は揉めているようなので、「私が注文した鬼まんじゅうよろしければどうぞ。」といいました。特にこの後、予定もなかったので、また街を散策して戻ってきました。再び、店に戻り鬼まんじゅうを購入しました。その時、店員さんに感謝されて、おまけに色々お菓子を付けてくれましたが、私は「対価もあるし、只でとはいけませんのでお支払いします。」といいました。しかし、店員さんは「頂けません。」と押し切られましたので、三顧の礼をもって頂きました。これはおばあさんは鬼まんじゅうをすぐに頂けたこと。店員さんはお客さんにサービスを提供出来たこと。私は和菓子が頂けたこと。誰も傷ついておらず、誰もが喜んで終わった出来事です。皆自分のものでは無いけれども布施が行えました。

 更に言いますと、布施とは自分の行いで頂けるものではありません。これは『正法眼蔵随聞記』(懐奘著)に由りますと、「布施は自分に供養されたものではない、仏法僧の三宝に供養されたものである。だからお取次ぎしただけである。」とお示しになっております。自分にその行いが出来たことは仏の教えにであったことなのです。ですから、私はお布施を頂いたら、まずお寺の本堂にお供えし、お経を読み、私はお下がりとして預かります。そして、皆様のお布施は寺院の運営や修理などに使用いたします。

合掌

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