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◎「オソマ」に込められた、震えるような親心

最近、映画『ゴールデンカムイ』で「オソマ」という言葉が注目されています。アイヌ語で「大便」を指すこの言葉。実はこれ、単なる排泄物ではありません。
病魔から我が子を守るため、あえて排泄物の名を授ける。そこには「何とかしてこの命を救いたい」という、震えるような親の祈りが込められています。「汚い」はずの言葉が、世界で一番温かい「愛」に変わる瞬間です。

10年の介護現場で見た「生のリアル」

 私たちは、排泄を「不浄なもの」として遠ざけていないでしょうか?
私は僧侶になる修行の後、10年間、介護の現場に身を置いていました。そこで私が目にしたのは、教科書には載っていない「命の真実」でした。
おむつ交換や排泄の介助。それは決して「汚れを拭う作業」ではありませんでした。
一人の人間が、その人らしく生きるための尊厳を守り抜く。
そこは、最も切実で、最も「生」のエネルギーが溢れる現場でした。
今やトイレは、赤ちゃんからお年寄りまで、誰もが生きるために欠かせない「聖域」なのです。


◎道元禅師が断言した「トイレは道場である」
曹洞宗の開祖・道元禅師は、その主著『正法眼蔵』の中で驚くべきことを説いています。
禅寺ではトイレを「東司(とうす)」と呼びますが、道元禅師はここを**座禅を行う場所と同じ「修行の道場」**として位置づけました。
「お経を読み、座禅を組むことだけが仏道ではない。生活のあらゆる営みこそが、お釈迦様の教えそのものだ」異質な臭いや見た目ゆえに避けられがちな排泄を、生きていく上で避けては通れない「尊い修行」と定義したのです。

◎「汚い」のは、排泄物ではなく「私たちの心」
そもそも、なぜトイレを不浄だと感じるのでしょうか?
それは、私たちがそこを雑に扱い、汚く使ってしまうからではないでしょうか。正しく使い、正しく向き合えば、排泄そのものに汚いことなど何一つありません。
私たちの扱い方一つで、それは忌むべき「ゴミ」にもなれば、命を繋ぐ「尊い儀式」にもなる。トイレの汚れを拭うことは、自分自身の心の曇りを拭うことと同じなのです。

◎綺麗な講釈よりも、目の前の掃除を。
立派な説法を聴くよりも、目の前の生活の場を整える
介護の現場で泥にまみれながら感じた「命の感触」と、道元禅師が遺した「生活の仏法」。この二つは、私の歩んできた道の中で一つに繋がっています。
不浄とされる場所にこそ、実は最も純粋な「祈り」が宿っています。
道元禅師がなぜ、これほどまでに「生活」という泥臭い場を重んじたのか。
その契機となった、若き日の中国留学での「衝撃的な出会い」については、また次回お話ししましょう。

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【参考文献】
道元禅師 著『正法眼蔵』「洗浄(せんじょう)の巻」
野田サトル 著『ゴールデンカムイ』

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